昭和の川は、生活と遊びの場

もっぱら黒部川とその支流で泳いだ。
達者なものになると利根川に出かけるものもいた。(但し学校からは禁止されていた。)
利根川を横断したものは羨望の的となっていた。
流れも速く、水温もあったかいのは表面だけで下は冷たく、よく事故の話を聞かされた。

小見川町内で泳ぐ場所としてにぎわっていたのは
鉄橋下、製材所(材木屋)の河岸、藤田屋(新田橋)、大村屋河岸、対岸の皆川石材河岸、大橋河岸、下宿河岸(渡船場)
河岸はコンクリートで出来ていたので遊びやすかった。飛び込み台になっていた。
浮き袋はタイヤチューブは珍しかった。
河岸の横には必ず堰き止めようの角材倉庫があるのでそれを持ち出して浮き板代わりに使っていた。
子供にはとてつもなく重かったので、上級生が居ないと使えなかった。

黒部川ではタニシが良く取れ、もぐりが出来る子はカラス貝(たんかいとよんでいた)をよく採ってきた。
食べ方も知らなかったので、鉄橋の欄干にぶつけて割れ弾けるのを楽しんでいた。

新開町に在ったでんぷん工場の沈殿槽が一時期臨時にプールが開設されて結構にぎわった事があった。 昭和32年頃)
町にはまだ水道が引かれる前であったので、プールの水は黒部川の水をくみ上げて使っていたようだった。
またはじめのうちは水垢だったか、でんぷんカスだったのか記憶には無いがだいぶ固形物が漂っていたような記憶がある。

学校にプールが出来たのは昭和36年頃
中学二年生の頃だったか、プールの建設工事の間中、校舎の屋根から写真を撮るのが日課となっていた。
その記録は結局何に使ったのかは知らない。
当時出始めのニコンFを使わせてもらえたのがうれしかった。