昭和の風景に紙芝居は欠かせない。
自転車に載った古びた格好と不衛生な水飴がシンボルだ。
アマゾンでは、“日本の大道芸”シリーズとして、紙芝居の口上のCDが販売されています。
日本の大道芸 街頭紙芝居名作篇
昭和5年頃から失業者が子供相手に飴売り行商のおまけとして始めたといわれる紙芝居。
紙芝居屋さんの一日を新録音でおくる貴重なCD。
最近は、図書館や文化施設などでも盛んに行われている紙芝居。
紙芝居の文化研究と、新しい育児教育としても注目されています。
昭和の紙芝居の情景
(みっちゃんの投稿)
紙芝居の箱を積んだ自転車に乗って40~50才(のように見えた)おじさん風の人が来て、決まった開催場所へ自転車を置くと、ハンドルに付けてあった大太鼓を肩に掛け叩きながら町内をひとしきり触れ回る。
どんな曲か、リズムかは思い出せない。
子供たちはその太鼓の音を聞きつけ手には10円玉(紙幣)を握り締め家をとびだしたりそれまで遊んでいたのを放り出し一目散に駆け出す。
小学生前の小さい子は太鼓のおじさんに付いてゆくこともあるが、大体は走りだし件の自転車の前に並び、太鼓を叩きながら帰ってくるおじさんを待っている。
ここでもその列に割り込む意地悪がいたり、一悶着が起こる事もしばしばであった。
紙芝居を見るためには木戸銭ならぬ水飴を買うと近くで見ることができるのである。
でも買わない、買えない子供もいたりで、そういうときは遠慮がちに少し離れたところからつま先立ちで背伸びをしながら見るハメに成る。
塀によじ登って見ていたこともあったようだ。
近くに図々しく立って見ていると、そのおじさんにやんわり、時にはきつく怒られる。
紙芝居が始まるまでの時間に買い求めた水飴は二本の割り箸に巻つけられており、5円か 10円の追加料金で米ウエハース(煎餅)のようなものを張り付けて貰ったり、
あんずが中に入っていたりしたが、常連は、水飴だけで二本の箸でこね回し始め、飴が白く成るまで続けることになる。
これも紙芝居が始まるまでの時間でどれだけ白くなるか競争となる。
おじさんが合図するまでひたすらこね回し続けるのである。
中に空気が取り込まれて白く成るのだが、そのうち少し白さを通り越して黒ずんでくることがある。
そしてその白さを叔父さんに判定してもらい三等くらいまでの子がウエハースをおまけに貰えるのである。
その喧騒が終わると太鼓の音を合図に紙芝居が始まると、目はその絵に釘付けになり、
思いだしたように時折くちへ持ってゆく水飴もそのうちタラーリ、タラーリと始まり気がつくと粗方落ちてしまいなくなっていた事もあった。
夏はことのほか早く、先に食べてしまわないと気になって紙芝居どころではなかった。
髪の長い女の子は時々その水飴をつけられてしまい大騒ぎとなり泣き出して帰ってしまう子もいた。
なかには紙芝居に夢中になり付けた子も、付けられた子も気づかずにいることも時折あった。
紙芝居の演題は2ー3本だった。
続きが楽しみで毎回欠かさず通うことになるのだが、自転車に乗っておじさんが去ったあとでは、今仕入れたストーリーでチャンバラが始まったり、風呂敷を引っ張り出してきて頭に巻いたり、首に巻きつけて走りまわることになる。
隣の町内で先に見てきた子は時々解説を始めることがアルが、まわりの子たちから「うるさい」だの「だまれ」だのとたしめられることもあった。
幼稚園前の子から4ー5年生くらいまでがその対象だった。
そんな中で年長、年少の秩序が自然とできていたように感じる。
背の低い子は前、高い子は後ろと毎日の遊びのなかでのルールがあった。
思い出の紙芝居の開催場所
昭和の子供時代、本願寺で遊んでいるとたまに来た紙芝居。
紙芝居が来ると、友達を呼んで来いと言われる。
何人か集まらないと始めてくれない。
ウェファースみたいな煎餅で挟んだ水あめを買うと見せてくれる。
出没場所
本願寺
善光寺
中央小学校正門前
魚平の横の路地(駅より)
紙芝居のタダ見の思い出
少し駅よりのところに最中の皮を焼いている家があった。
同級生だったこともあり、よく水飴をもらって、紙芝居を潜りで見ることに成功(ただ見)。
最中の皮を作る餅には少し水飴をいれる為に石油缶に入ったものを常備してあった。
作業場に潜り込んでは、そっと石油缶から、持ってきた割り箸に水飴を巻とり、何食わぬ顔で紙芝居見学をしていました。
子供の悪知恵には、寛大な時代なので、見て見ぬふりだったのかもしれませんね。