過去と現在は繋がっていると感じる一瞬があります。
なんか親しみ深かったり、安心したり、ルーツを調べてゆくと納得する事もあります。

森下屋の由来と小見川の名所旧跡との関わりなどを紹介します。

鈴木作美(明治45年生)が中学に入る前、父親、賢(明治23年生)のおばさんにあたる、近所に住んでいた当時60歳くらいの岩立さんから聞いた内容を話して貰いました。
後の家系図調査で鈴木家五代目(鈴木総治郎)の妹の岩立けいさんで有る事が判っています。

過去の記録と突合せ、生まれる前の鈴木家のルーツの整理です。
何代も遡るとたくさんの分家を発生させます、あなたにも鈴木家何代目の次男を起源としているというような出会いが有るかもしれませんね。

小見川旧町内案内図

tizu

(小見川町生涯学習のまちづくり推進事業(実績報告書II)より)

小見川藩だった中央小学校、その黒部川対岸に小見川祇園祭りの開催六町を囲んでお寺が連なっている。
その一角にゆかりの須賀神社がある。

鈴木家の起源と森下屋の由来(江戸時代)

鈴木家は、江戸時代は外濱に住んでいた。

鈴木家初代夫婦

初代目は、外濱の佐久間平治郎の次子として出生し寛政元年(1789)に没している。
いつ生まれ、いつから鈴木姓を名乗ったのかは定かではないが、ほぼ250年の歴史がある事になる。
夫婦の戒名には、天明と寛政の没年号が見られる。

寛政は、松平定信が田沼意次の後に大老となり、寛政の改革を行った事で知られる、江戸時代中期である。
それから60年程度遡ると、徳川吉宗の享保の時代となり、初代の頃の、おおよその時代背景がわかる。
平賀 源内や本居 宣長あたりと同時代を生きたことになる。
外濱の近くに有る善光寺に祀られている歌舞伎の初代  松本幸四郎は、享保の時代に活躍した役者である。

この松本幸四郎は、同じ町内会の外濱の増田家の出身である事が、
市の観光ページである香取を旅するの 初代松本幸四郎の墓 に書いてある。

丁度、初代の父、佐久間平治郎の頃のご近所さんだった事になる。

腹切り様伝説
腹切り様伝説

享保と寛政の間の安永、丁度初代の時代に、「腹切り様」伝説の悲恋物語が起こっている。

善光寺に建てられている碑、クリックすると拡大し、物語を読む事ができます。

鈴木家二、三代目

二代目は、文政2年(1819)に 三代目は、天保15年(1844)に没している。

二代目の生きた時代は、文政元年(文化15年)に73歳で亡くなった伊能忠敬と重なる。
伊能忠敬は、佐原の酒屋の養子だったが、50歳に定年になってから自分の好きな事を勉強し始めた。
57歳からの15年間で世の為になる偉業を達成したという生き方には、勇気づけられる。
ちなみに、私の小学校の思い出に、   将来何になりたいのかの質問に、地図帳を作りたいと答えたという。

三代目の生きた時代は、江戸後期の下総の地を舞台とした講談の「天保水滸伝」で名高い物騒な時代背景と重なる。

当時開国派と鎖国派の利根川水運の利権を巡る有力諸藩の代理戦争であったという異説が有る事が、 笹川繁蔵のウィキペディアには書かれている。
利根の川原の枯れススキの裏寂れたイメージがあるが、小見川は江戸との船便で今よりもずっと賑わってたようだ。

この文政から天保にかけて小見川藩の典医の息子で近所の内濱で幼少を過ごしていた郷土の偉人に、 明治時代に東京順天堂の創始者となった 佐藤尚中がいる。

多分、四代目の重兵衛とは、幼さな馴染みだったに違いない。

内濱の佐藤尚中の生家は、現在内濱公園となっている。

 

外濱一帯は今でも緑が多いところだが、江戸時代は森に囲まれていた。

三代目までは、戒名のみ判別しているだけで、鈴木正衛門が何代目に当たるのかはわからないが、 須賀神社(小見川祇園祭は須賀神社の祭礼)の主守(シモリ)であった鈴木正衛門の家は、 この地域一帯の森の下にあったため、いつからか森下屋敷と言われるようになった。

水郷おみがわ花火大会など、あまた有る行事の中で、何故、小見川祇園祭になると血が騒ぐのか?
疑問の謎が解けたように思いました。

神社と言えば、麻に米。お田植え祭など水田には密接な関係がある。
そんな理由からか、小見川の各地に田や畑を持っていた。
八日市場(小見川町)の名主 阿蒜さんが持っていた明治3~4年の地図に森下新田(現 一の分け目)の地名がある。

仲町への転居と明治時代

四代目重兵衛は、幕末から明治の激動の時代を生きた。
重兵衛は剣道が大好きで小見川藩に来た熊本出身の指南役に弟子入りした。

その後も盛んだった小見川の剣道。

剣道の思い出

妙剣神社の早朝練習、わりと楽しかった。

明治の廃藩置県で、小見川藩に勤めていた人達は失業し、新たな仕事を探さなければならなかった。
指南役が亡くなった時、身寄りが熊本から来なかったので重兵衛が後見人となった。

私が子供のころ、本願寺にお参りに行くと、数箇所の知らない人達のお墓に線香を上げるのが常だった。
だれのお墓かはわからなかったが身寄りがない道場の人達のために重兵衛が立てたようだ。
重兵衛は世話好きな人柄だったと見える。
この本願寺の身よりの無い墓は、いつのまにか更地になってしまった。

現在の仲町にある森下屋の土地は、重兵衛が明治の初め、
家付きで当時小見川一の呉服店であった高寺呉服店から1000円で買った。
重兵衛は商いの為か、白壁の二つの蔵の中に刀剣と貴金属を入れていたという。

明治15年 重兵衛は、あまり勝ち目のない裁判を起こした。
裁判に負けると財産が没収されると知り、
各地に持っていた土地の名義を知り合いの名義に書き換えた。
明治21年 裁判は勝ち、
その利益で東京から相撲を呼び小見川町の有名人約200人を招待した。

この頃迄が、森下屋の全盛期で有ったのかもしれない。
子供の頃、何度か聞かされた昔の白壁の蔵の並んだ風景を
今一度再現できるのは、私かもしれないと子供心に思ったものだ。

そのころ重兵衛の子、五代目にあたる總治郎は寺子屋をはじめた。
現在の森下屋洋品店のウインドウに飾ってある森下屋の看板はこの寺子屋の机だった。
作美の子、輝一郎がずっと後になって、当時の机を加工して作ったものだ。

森下屋看板

しかし重兵衛は その翌明治23年に急死。
その年長男 賢が誕生した總治郎も数年経たずに死去。
土地の名義もそのまま(裁判の時に書き換えたまま)となってしまった。

重兵衛の妻は、小見の田(でん)家から来たと思われるのだが、
実家は大正の大火で焼け 東京へ移り住みその後不明になった。
今でも田家の紋入りのお膳があるのだが、古文書が焼かれてしまって定かではない。

總治郎の妻: 府馬の大ばあちゃん シモは石川家から嫁いで来た。
總治郎は若くして亡くなった為、妻と幼少の子供たちだけで苦労をしたらしい。
總治郎には子供が4人いたが、
長女(コト)は小見川の八日市場の伊藤家に嫁にいった。

キミおばさん

次女キミ(鈴木賢のお姉さん)は府馬の県議 林剛に行儀見習いとして
住み込み、その後米国に行っていた広島のおじさんと結婚。

渡航する費用が工面できなくて、
その時鈴木家の子守をしていた忍のおばあさんに
鈴木家の土地の一部を売り
嫁入りの為の資金を工面した。
キミは、その後米国で成功し、作美の学費などを見てくれる恩人になる。

私の子供の頃までは、乳母というか、子守というのか、が居た。
大概同じ年頃の子供がいて、良く遊び友達になった。
その後、家の隣にいた忍さんには、羽根川の方にあった家付き土地を譲り、
私の学費に充当したとの話を聞いた。

長男 賢(鈴木家六代目)
ごたごたを残されたまま三歳で当主になったが、母シモの努力の甲斐も無く、 男社会の明治時代後半は竹の子生活で没落の一途だったようだ。
賢は東京に奉公に行った後、森下屋洋品店として衣料の店を構えた。

小見川案内という本が大正時代に発行されている。
商店の一覧表もあって、この頃は洋品という分類がなく、呉服商か、洋物商か、足袋商。
鈴木賢 仲町 の記述が足袋商の表題の下に有る。
お爺ちゃんが足袋を作っている姿を思い出す。
足袋の思い出のページ を作った。

明治のご近所さんの話

隣の人見さん(産婦人科)は良文から、明治もずっと後に来た。

服部醤油店は明治の初めに森下屋が来た時には既に開業していたが、
後に大村屋(イリダイ醤油 現、チバ醤油)に買ってもらう事になった。

妙蓮寺では、 日蓮の創建を忍んだ祭り 旧11月12日(オメゴ)があった。

染物の甕

妙蓮寺横から姫宮神社まで浅田染物屋であり、藍染の甕が40~50個置いてあった。
仲町と新田の間の側溝は、以前は水路であり、野田・本郷まで伸びていて、
稲を積んだサッパ舟が通った光景が大正のころまで見られた。

宮本座
宮本座

浅田染物屋は大部分が大正時代、明治堂の前の宮本さんが買い宮本座(映画、芝居 現マルサン)になった。

妙蓮寺の反対側は瀬川下駄屋 明治初期頃の瀬川大夫の生家。

小見川に明治40年代の大火があり、須田さんから本願寺~本町まで焼けた。
本願寺に有った過去帳も焼け、手掛かりが又ひとつ無くなった。

小見川祇園祭り屋台の起源は

獣面の鏡が川端の堺屋の出橋に流れ着いたのを、御神体として須賀神社に祭った。
旧暦の6月15日に小見川祇園祭は開催された。
北下宿の屋台はテコ式で一番古くからあり、回転性能に優れている。
江戸時代から370年の歴史を持つ小見川祇園祭が現在の形になったのは、
ぶっつけ屋台 => 6町の屋台(大正7年)と言われる。

国鉄、成田線の敷設話

明治37年頃 小見川の正福寺裏を終点とする鉄道を引く話が持ち上がったが
賛成派(=高寺佐兵衛 商工会)と反対派(=回船問屋)が対立し
結局反対が強く話は流れ 佐原まで開通した。

また 八日市場ー小見川ー鹿島線も計画されたが運動する人が無く流れた。
結局 佐原から小見川を経て松岸まで鉄道が延びたのはだいぶ後になった。

以上が私こと、鈴木作美(明治45年生98歳)が生まれる前の明治迄の鈴木家の物語です。
次からは、私の百年史から終戦までの記録の抜粋です。

鈴木作美百年史より

自分より随分若い人達が亡くなって行くのを見るにつけ、世の無常を感じます。

人生を振り返ると、七転び八起きだったなとつくづく思います。
万事塞翁が馬とか、お釈迦様の手のひらの上とか、所詮そんなもんよと感じます。
でもこの年になっても、小見川の事が気になります。
先日も、若い者に商店街の荒廃ぶりを何とかせいとはっぱをかけてしまいました。

鈴木作美の出生

父、賢は東京での奉公の後森下屋に足袋商いの店を始め、神里村の竜谷からナツを嫁に貰った。
賢の長男として生まれた私は、祖父總治郎の遺言で作美という名前が付けられた。
祖父は明治元年から、小見川尋常小学校(現香取市立小見川中央小学校)ができるまで、寺子屋を開いてきた。
その苦労?の想いが私の名前にこめられて居るのかもしれない。
戦後の写真ですが 昭和の小見川中央小学校

人の名前は一生を左右するものか知らないが、この変わった名前には、一度も出くわしていない。
名前の由来が知りたくて探すと、岡山県に美作という地名が見つかった。
児島高徳の伝説が有り、筆まつりなどが行われる文化の町である。
絵画に興味を持ち始めたのは、筆を持つのが祖父の意志と感じた頃からである。

関東大震災にあう

まもなく中学という時に関東大震災に会った。
震度は、今回の地震と同じくらいの5強くらいであったろうか。
大正12年 関東大震災 概要
小見川では、ほとんど被害は無かったようだが、大根塚で一人、亡くなったという話を聞いた。
今回は、壁が剥がれたり、タンスが倒れたりしたが、夜でなかったので無事だった。

小見川で祖母が関東大震災に会ったという ナルナルさんのブログ

旧制佐原中学(現県立佐原高校)に進学

勉強は続けたかったが、生活に余裕が無かったので進学は諦めていたのだが、キミ伯母さんが学費を出してくれるという事で 急遽進学する事になった。
(奨学制度のような精神は、昔から有った。意志を示すと援助の手が差し延べられる。見返りは感謝の気持ち。)
大正時代まだ、鉄道もバスも無く往復24キロの道のりを毎日自転車で通った。
ほとんど進学する人はいなかったが、地元の同窓生達とは以後長い付き合いとなる。

満洲に出征

学校を卒業したら待っていたものが、入隊。
そのために勉強したわけでは無いのだが、当時は徴兵制度で有無を言わせずです。
行った先は、シベリア国境に近いハイラルを中心とする内蒙古、興安嶺方面です。
国境警備と調査の為ですが、気候は過酷ですが、人は優しく、騎馬と遊びました。

蒙古は、平地が多く遠く何処までも見渡せます。
驚いたことに、国境の川を挟んで12キロは有る敵軍の小屋の動きも手に取るように見えます。
手を振ったら、向こうからも見えていたようで、送り返してきました。

満洲の建国もなり三年目に、帰国可能な時期になりました。
日本からも、ハルピンや長春などの都会への進出が増え、
ほとんどの同僚(帝大出の幹部候補は全て)は、前途洋々の満州に残りました。

これから良いときなのにという哀れみの眼差しの中、私は家族のもとに帰りました。
私は長男なので家族を養っていかなければなりません。

私の元に残った2冊の青春の思い出アルバム、戦後消息を尋ねて、歩き回りました。
あの時の同僚達は、負傷で日本に送り返された数人を除いて、全て戦死していました。
アルバムの写真で歯抜けになっているのは、遺族にお渡しした跡です。
当時の戦友たちの写真は、アルバムにたくさん有りますが、ギャラリーには出せません。

結婚と小見川

家では、両親と5人の妹弟が待っていました。
どうやって養って行こうかと考えていた時、東京で洋裁を勉強しているという妻との縁談話が有りました。
もんぺ姿しか見られない田舎でNHKのドラマのカーネーションの洋装店より少し早い時期です。
これからは、洋品店の時代だなと、家族を養う為に結婚したのが妻のマサです。
森下屋洋品店の誕生です。 (戦前、戦後の時期は、衣食のお店が大流行。)

小見川の航空写真(昭和12年)
小見川の航空写真(昭和12年)

市街地は、中央大橋が無いぐらいで、余り変わらないのですが、新開橋からの黒部川の風景がまるで違います。
旧小見川中央中学は海(?)の中、外濱の先も随分広い川です。

森下屋洋品店の前で家族の写真(昭和18年)
森下屋洋品店の前で家族の写真(昭和18年)

内地勤務ですから、時々は戻ってこられます。
家族にまかせっきりでも、そこそこやっていけるようになりました。
給料はいざという時の為に、全て生命保険に入れておきました。
(この生命保険は昭和40年代に満期となり、生命保険会社の人が一生懸命届けてくれました。
満期金は、3000円、戦時の月給の30倍です。生命保険が嫌いになった瞬間です。)
子供にも恵まれ、順風満帆なつかのまの時代でした。

そして終戦に

昭和19年頃からは、アメリカの戦闘機が上空を飛ぶようになりました。
銚子は軍事施設が有ったので狙われました、小見川は、攻撃対象にはならなかったのですが、 鹿島方面、九十九里方面、東京方面からの通行路になっていた為、頻繁に防空警報が鳴ります。
終わったあとの残った焼夷弾を飛行機を軽くする為に、出鱈目に落して行ったようです。
防空壕を作り、カラクリ屋敷のように家の中から避難できるように穴を作り逃げ込めるようにしました。