昭和の時代は何でも手作り、遊びに趣味にクラブ活動。
小学校から中学校時代、理科の実験や、技術家庭の工作、野山を駆け回った思い出がいっぱいです。

小中学校の理科部と趣味のコーナー

鉱石ラジオからアマチュア無線へ

ラジオの組み立てが流行っていた時期です。
最初はゲルマニュームラジオ。
真空管ラジオは、並三、並四、五球スーパーとだんだん真空管が増えていきます。

難しい機器を手作りできる人には、尊敬のまなざしが向けられました。
アマチュア無線の受信機、送信機やテレビを組み立てる人も出てきました。
ジャンク品をまる1日かけて秋葉原に買いに行った思い出が有ります。

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気象観測・天体観測

毎日同じことの繰り返し、それで設備は有るのだがやりたがる人はいなかった。
小学校の一人気象観測:百葉箱の中に温度計、乾湿計と雨量用のシリンダーを揃えて、日曜も含めて毎日の測定記録は割と大変だった。

中学の気象観測、アネロイド型気圧計が加わった。
毎日、当日の予報を黒板に書き出しておく。
台風観測に泊り込み、期待はずれも多かった。
参加者も増え人気に。

夏の天体観測、城山に篭って土星の輪を見たり。

理科室の暗室

中学校の理科室の暗室の上が、隠れ場所。
よく仮眠をとっていた。
みっちゃんは、都電の撮影をやっていて、現像をよく手伝わされた。
関連ページ:東京都の昭和の路面電車

野口先生が撮ってくる記念写真の現像もここで手伝っていた。

みっちゃんのラジオ工作の思い出話

団塊の世代の学生時代のひとコマです。科学が急速に進歩してゆく時代と共に。

同じような思いを(真空管はICチップに変わりましたが)20年後にマイコン工作で味わいました。
真空管ラジオと無線の送受信機の回路図や説明が有りました。
まるごと真空管もの知り百科には懐かしい真空管回路がいっぱい

  • 小学5年:鉱石ラジオ
    方鉛鉱の検波器をつかった鉱石ラジオを作る
    最初は誠文堂新光社(子供の科学)から売り出していたキットで組み立てた。(コメント)イヤホンから音が聞こえた時の感激を思い出します
  • 小学6年:並三ラジオ
    三球ラジオ(再生バリコン付き)  (初歩のラジオ)
    真空管は6C6,6ZP1,12F(コメント)並三は、学校の家庭科の授業で作った記憶も有る。
    :並四ラジオ
    原理は三球と同じ、音声増幅が一段追加されたもの:5球スーパー
    真空管は6WC5,6C6,6ZDH3A,6ZP1,12F
    ちょっと高級(パワー)版は、 6D6,12A,80(コメント)当時の家庭用ラジオは大概並四か五球スーパーだった。商業放送でステレオ放送開始(実験放送)
    NHK第一、第二と  文化放送、ニッポン放送愛読書(ラジオの製作・電波科学・CQ)
  • 中学1年:9球高一中二スーパートリオ9R4J (貯めた小遣いでキットを購入 24000円なり)(コメント)当時の羨望の的、とても手が出ないので、解析度を上げるため、バーニアダイアルや前段の増幅回路集を集めてお手製を検討した
  • 中学2年:TVチューナ改造FM受信機
  • 中学3年:3EP1  3インチCRTと高圧電源だけのオシロスコープ一人で秋葉原へCRTを買出しに出かける
    部活の集合写真を売り上げた費用で、部品代の工面をした。(コメント)理科室にいつの間にかオシロスコープが置いてあるのでびっくり高圧電源回路を設計?し雑誌へ投稿、採用され掲載誌を貰う(雑誌 CQ)
    倍電圧整流回路(4倍圧型ーー250Vから1200VDC)手巻きの改造トランスで800ボルトまであげることができたが、使っているうちに絶縁不良で発熱で、セパレータの紙から煙が噴出して合えなくダウンしたことがあった。このときは300ボルト程度の定格の整流管(5MK9)で整流していたことがある。無茶な話だが、何とか使えているから不思議なものだ。真空管は強い。4倍圧の整流回路を作ったときには出始めたばかりのシリコンダイオードが安くなりだしたので、3個直列のものを4組作って耐圧を稼いだものであった。最後には、ネオン照明用の高圧トランスを使って見たものの、大きすぎて持て余してしまった。
    13000V、20mAの容量だったように記憶している。
    一度これで感電したがとんでもない痛さで驚いたことがある。この痛さは、まげているひじを後ろから丸太棒でたたかれたかの様な衝撃がある。
    中学校の放電器で感電したのと同じ感じ。これは4cmのギャップで空中放電をさせるものだから電圧はもっと高いだろう4-5万ボルト程度だったろう。木ノ内の小松崎さんんから、放送用アンプの二段ラックを格安で譲ってもらったことがアル。
    結婚するの片付けることになったらしく、送信機用の部品つきなので非常にうれしかった記憶がある。下段には電源と、変調器のアンプ、上段が送信機となっていた。
    807-6V6という構成だった。変調器は6AN6-6L6 という構成???(コメント)無線の先輩の小松崎さんのところには連れて行ってもらった記憶がある。
  • 高校1年国際電気製 水晶メカニカルフィルター使用  買えなかった(借り物でガマン)
    真中君が小遣いをためてやっと買うことができた代物を1週間ばかり借りていた。
    ディップメーター コイル製作、周波数測定コンテスト応募

以下みっちゃんの思い出話はまだまだ続きますが、私は中学を卒業前に転校です。

関連ページ:真空管ラジオはまだ販売されていた
レトロなラジオは、外見を評価?真空管を評価?

みっちゃんのアマチュア無線の思い出話

団塊の世代の学生時代のひとコマです。科学が急速に進歩してゆく時代と共に。
同じような思いを25年後にパソコン通信で味わいました。(私がコメントです)

  • アマチュア無線の受検
    中学三年4月 電話級合格(3回目の受験)
    (コメント)あら、私の方が若くして合格していたんだ。
    同    10月 電信級合格
    (コメント)ツート・ツート・ツーツー・トツーと一所懸命覚えたモールス信号。
  • 受検講座の思い出
    NHK教育テレビで受験講座を一年くらい放送していた。
    そのときの女性ハムで 須藤のり子 さんという美少女が出演していた。
    (コメント)私も良く聞いていました。あれ、一緒に見ていたんだっけ。

    ハムのアイドルだった JA1CYA須藤典子さん
    (1959年の思い出話)

    1959年(昭和34年)4月2日に初の電信・電話級アマチュア無線技士の国家試験が施行され、受験者総数1万6791名のうち電話級受験者1万5288名となっています。

    この時受験して合格した一人に、須藤典子さんがいました。
    当時、中二(15)の最年少女性ハムとして、一躍有名人になったのです。
    昭和34年の朝日新聞のハム紹介記事にノンちゃんとJARL初代会長の梶井OMが紹介されていました。

    (コメント)こんな昔でしたか、私の家にはテレビが無く、街頭テレビか、みっちゃんの家におじゃまして見ました。
    関連写真: 街頭カラーテレビが設置された日

  • 送信機の製作受信機はラジオ工作で触れた、トリオ9R4Jをそのまま使って
    中学3年) 6V6 :5W電信送信機
    807 :10W送信機  A3変調機つき(コメント)807全盛の時代だったからね。これは小松崎さんのお下がりですか?小松崎さんのところには、ジャンクがたくさん有りましたね。
    ham_off
    その小松崎さんの紹介で、オフ会を佐原で
    (中学生は小見川中央中だけ)
    すごいベテランそろいの中で1回だけ参加。年齢差が有っても趣味の世界は話が通じる事が面白い。
    (コメント)私は、受信専門で、アンテナを張る竹や銅線を買ってきて引っ張り廻したり、 イマージェンシーコンテストの受信部門で徹夜して2位の賞状を貰いました。
  • 高校2年)  6AR5 5W送信機
    6L6 メタル水冷改造機 15W送信機
    2E26 10W50Mhz送信機3A5 シングルで50Mhz トランシーバを弁当箱大に作り京都修学旅行に持って行き夜の自由時間に現地の方に道案内をしてもらい、自宅を訪問する。平安神宮の近くだったような気がする。955 で455Mhz発信機を製作  500mの通信成功
    自励発信によるエーコン管  調べてみると、ラジオゾンデの発信機によく使われていたらしい。(コメント)電話級は、3.5Mhz&7Mhz 電信級が 14Mhz の棲み分けから、
    どんどん上がって行って、VHF,UHFに侵食。雑誌でも、いろいろ取り上げられていました。
    夏休みなどに田舎に帰るたびに、いろんなものが増えているのに驚かされました。
  • その後 (私は知らない世界の話ですが)
    高校3年)大学受験のため中止と行きたいところが、真中、坂本と三人で銚子漁港へでかけ、無線屋へ行き、中古の船舶用の送信機を買い込んでしまった。三人がかりで汽車に積み込み、持ち帰った。
    ちょっとした机くらいの大きさでやたらと重い。
    急ごしらえの電源装置で動作させることが出来た。
    付いていた水晶発振子は少し低い周波数のため、分解して手作業で研磨して何とか3.5Mhz帯に合わせることが出来た。この頃、やたらと水晶振動子(発振子)を磨くことに懲りだして、わざと少し低めの振動子を安く買ってきて磨きながら周波数を合わせるなどということをやっていた。
    それでも10個くらい磨いただろうか?
    秋葉原では、周波数の外れたものは二束三文になっていたので面白いように加工できた。受信機とディップメーターとでの周波数測定は結構面白いものであった。
    これらは全て手作りのもの。(コメント)水晶発振子を磨いていた事は見た事が有る。結構ポピュラーな作業A1電波での送信で出力は50Wくらい出すことが出来た。
    P200 三極管だったように記憶している。  1000V 200mAを供給していた。
    発信始めると家の電球が暗くなってしまう。  電源の容量が足りなかったのだろう。電源トランスは500V×2、300mAというトランスが合ったので、直列にして1000Vにしたが、整流管の高耐圧のものが無かったので、何かの整流管を規格オーバーでつかっていたようだ。
    短時間ならば何とか持つだろうと無茶なことをやっていた。  真空管は丈夫なものである。
  • さらにその後昂じて会社へ入ってから高周波発信機の動作解析とチューニングを行う(最適動作点を出す)
    会社で導入したばかりのコンピュータで真空管の動作曲線の当てはめを行い設定ポイントを計算していた。(FORTRAN)
    高周波加熱機(30KW) 発信機